1868 オーストリアのウィーンに生まれる。
父:レオポルドはウィーンの著名なジャーナリストで新聞社主。
両親はユダヤ系であった。
1875 父親死去
1885 ウィーン大学医学部入学
1890 同校卒業を前に、母親と共にカトリックへ改宗
当時はカトリック教徒のみ教授職につけた。
ラントシュタイナーは、ユダヤ系の出自[1]を隠し続けねばならない時代に生きた。
1891 医学生として野戦病院部隊に1年間従事
1891 博士号取得 同校卒業
1891 予備役医師の軍階級を授与
1891−1896 スイス・チューリッヒ、ドイツ・ミュンヘン留学 生理化学の研究
1896- ウィーン衛生研究所助手
1897-1907 ウィーン大学病理学研究所助手
1900 論文:「血液血清とリンパ液における反発酵性の溶解性と凝集作用」の脚注にて、血液の凝集作用を指摘
1901 論文:「正常人血液の凝集現象について」にて、ABO式血液型の発見を発表
血液の凝集は病気が原因と考えられていたが、健康な人でも起こる生理現象であるのを、22人の被験者の血液を混合し証明した。[2]
この凝集反応は「ラントシュタイナーの法則」と呼ばれる。
自身の血液型はO型であった。
■ 1902 AB型の発見(ウィーン大学内科の同僚、デカステロ、スターリによる)
1903 病理学博士号取得
1906 梅毒スピロヘータの有無を調べる暗視野法を発表
1908-1920 ウィーンのウィルヘルム病院勤務
1908 ポリオの原因をウィルスと特定
1911-1919 ウィーン大学病理解剖学教授
カトリックへの改宗にも関わらず、完全な教授職へは昇進できなかった。[3]
ウィルヘルム病院と掛け持ち勤務。
1919-1922 オーストリアを離れ、オランダ・ハーグで病院勤務
1922 アメリカ移住 ロックフェラー医学研究所所員に就任
1927 MN式・P式血液型の発見
1927 シカゴ大学名誉博士号授与
1929 アメリカ国籍取得
1929 アメリカ免疫学者協会会長就任
■ 1930 オーストリアでノーベル賞の新聞報道
ユダヤ系出自がオーストリア国内で公平に扱われない現状を憂う記事が載る。
「長年に渡り政治的、超国粋的、宗教的基準を科学研究に注ぎ込む者達が、大学都市(ウィーン)にとり、いかに有害であるかを認識する事を我々は望む」[3]
ラントシュタイナーはカトリックに改宗したものの、ユダヤ系の父親が有名なジャーナリストだったので、本人もユダヤ系とされたようだ。
1930 ノーベル賞 生理学・医学賞 「人血液型の発見」
1930 ウィーン医師協会名誉会員
■ 1931 日本の学術雑誌にラントシュタイナーとの交流を示す一文が掲載される。
「今回ノーベル賞を受けたラントシュタイナー氏は今から三十年前に血液型の四種類を人類に発見し、それ以来その研究を継続し、血液型研究にはかけ出しの我々にまで書を寄せて新しい研究報告の印刷物があれば贈れ(ママ)と言って来る」
■ 長崎医科大学教授 浅田一[7]
1934 イギリス・ケンブリッジ大学名誉博士号授与
1934 ベルギー・ブリュッセル大学名誉博士号授与
1936 アメリカ・ハーバード大学名誉博士号授与
1937 "Who's Who in American Jewry"(ユダヤ系アメリカ人事典)に掲載される。
ラントシュタイナーは猛烈に抗議し、10万ドルの賠償を求め裁判を起こすが敗訴する。[4]
アメリカでの反ユダヤ主義は、1870年に資本家が労働者の不満をかわすために、労働者を扇動して始まった。[5]
■ 1938 ナチス・ドイツがオーストリアを併合
直後に、ユダヤ系国民を公職追放する「アーリア化(民族の害毒たるユダヤ系を排除しドイツ化を推進)」を開始。
多くのユダヤ系医療従事者・研究者が公職を追放され、中央の大学・研究機関は壊滅的打撃を受ける。
中世より医療はユダヤ系に開放された分野であり、その比率が高かった。
ウィーン大学医学部では、197人のメンバーのうち153人のユダヤ系を解任し、ヨーロッパ外へ移住できなかったユダヤ系医師は、自殺したか、強制収容所で抹殺された。[6]
ユダヤ系の学問的功績は廃棄され、学問のアーリア化が推進された。
ラントシュタイナーは祖国オーストリアでの名誉を失った。
1939 ロックフェラー名誉教授 現役を引退するも研究を続行
1940 Rh式血液型の発見
1937年の発見だが、抗Rh血清の製造法改善に時間がかかり、1940年の発表となる。[3]
1943 研究中に心臓発作で倒れ2日後に死去。 享年75歳
■ 1997 ラントシュタイナーが祖国オーストリアで、紙幣の顔に採用される。
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